余華『活着』:ありのままの人生を淡々と歩む姿に心打たれる

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こんにちは、じゅりです。

わたしはもともと本を読むのが大好きで、特に小説をよく読みます。

ですが、中国文学は今まであまり読んでいなかったので、今回、とても有名で、初心者におすすめと言われている、余華の『活着』という中国語原書に挑戦してみました。

とてもおもしろかったので、本書について以下にご紹介します❣

 

余華『活着』の概要

1993年に余華が発表した長編小説です。

日本では『活きる』という題名で角川書店より出版されています。

登場人物

我:田舎に行き民歌の収集をしている男の人。

福貴:この物語の主人公である男性。

家珍:福貴の嫁。

鳳霞:福貴の娘。

有慶:福貴の息子。

二喜:福貴の娘である鳳霞の旦那。

苦根:二喜と鳳霞の息子。

 

あらすじ

この物語は”我”の十年前の話から始まります。

”我”は民歌収集の旅の途中で、畑を耕す一匹の牛を連れた老人の福貴に出会います。

福貴は、連れているその牛を”福貴”と呼び、牛の”福貴”が怠けると「二喜、有慶だらだらするなよ。家珍、鳳霞上手にできてるな、苦根もいいぞ」と声をかけます。

それを遠目で見ていた”我”は老人の福貴に「なぜ一匹の牛にいくつも名前があるのか」を聞きに行き、その答えと共に、老人の福貴は自分のことを”我”に話していきます。

博打に身を滅ぼし、国に徴用され、親は死んでしまい、娘の鳳霞は口がきけなくなってしまう……。

この小説では、老人の福貴の人生を、40年前の話から始まり、今に至るまで、記憶を余すことなく鮮明に描いています。

 

余華『活着』を読んだ感想

物語は最初から最後まで、とても辛く悲しいです。

なぜここまで災難が続いてしまうの?と疑問に思うくらい、心が引き裂かれる思いでした。

しかし、読者である私の気持ちとは裏腹に、当の本人である福貴は、たんたんと現実を受け止め、自分の人生を地道に歩んでいます。

その姿はとても心強く、博打で身を滅ぼした地主とは思えぬほど、頼もしいです。

「活きるってなんだろう?」、「わたしは何のために活きているんだろう?」と、思わず自問自答してしまいました。

 

印象的だったところ

あらすじで紹介したシーンなのですが、

福貴はその牛を”福貴”と呼び、牛の”福貴”が怠けると「二喜、有慶だらだらするなよ。家珍、鳳霞上手にできてるな、苦根もいいぞ」と声をかけます。

それを遠目で見ていた”我”は老人の福貴に「なぜ一匹の牛にいくつも名前があるのか?」聞きに行き、その答えと共に、老人の福貴は自分のことを”我”に話していきます。

”我”の「なぜ一匹の牛にいくつも名前があるのか?」という質問に対する福貴の答えがとても印象的でした。

「牛の”福貴”が自分だけが畑を耕していると知られてしまうのが気がかりで、たくさんの名前を呼んで”福貴”をだましているんだ。ほかの牛も一緒に畑を耕しているとわかれば”福貴”も嬉しいし、頑張れるだろう」

 

初めてこの文章を見たときは、ただ、思いやりのある老人なんだな、という第一印象を持たされたのですが、最後まで読んだ今、この文章を見ると、目が涙で覆われてしまいました。

小説で明かされる福貴の人生を知ると、福貴の奔放さや運命のいたずら加減に冷静さを失いそうになる場面がいっぱい出てきます。

そんな不運だらけの人生をたんたんと生きてきた老人が、晩年に差し掛かろうとする今、こんな気持ちを抱いていたんだと知れたのが、とても感慨深いです。

 

勉強になったところ

私は福貴の強さです。

自分に言い訳をしないところ、どんな不運にも屈しないところ、たんたんと前を向いているところ……。

こんなに悲しい物語なのに、いい作品だといわれるのは、福貴の強さのおかげもあるのではないかなと思います。

 

最後に

中国文学は今まであまりなじみがなかったのですが、今回の小説を読む中で、以前訪れた農村の風景がありありと目に浮かんできました。

日本の小説では味わえない気持ちを味わえると知り、すごく興味を持ちました。

これからも、中国文学に挑戦していきたいです⭐

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